<16コの踏切を求めて(2)

以前に記載した「南平〜高幡不動」間の踏切の数についての続報です。以前の記事はコチラです。
南平駅の新宿寄りにあるホームに隣接した踏切は「高幡16号踏切」なので、南平と高幡不動間には全16個の
踏切が存在するとしていましたが実際の所はもう少し多かった様です。



現在の南平駅の地図上に昭和20年代前半に確認出来た踏切を記載してみました。
この頃の電車の長さなど知れたものでホームもかなり短いものでした。
駅周辺には民家が2軒ほど確認出来るだけで全てが田んぼという光景です。
現在の高幡16号はホームの延長により「移設されたもの」と考えられ2つの踏切が消滅した
と考えても良いのですが消えた踏切が16号・17号と言う名称であったのかは定かでありません。



こちらは以前の記事で工事をしていて「近い将来消える」としていた15号踏切の現在の姿です。
綺麗に道路が線路下を通っているのが分かります。既に高幡15号踏切はなくなっています。



高幡15号踏切跡を北側から撮影したものです。既に工事も終わり綺麗になっています。



こちらは大昔から残る高幡14号。幅も私が子供の頃から拡張されてはいない様だ。



高幡14号踏切の昭和20年代初頭の空中写真。北野街道から田んぼの真ん中を走り14号へ
抜ける光景は昭和50年代迄は見る事が出来た。軽トラックがすれ違うのも困難な程の細い道でした。

そしてこの高幡14号踏切の次は高幡7号踏切となってしまうので消えた7つの踏切を調査してきました。
再度高幡不動〜南平間も歩いて見たりもしましたが決定的なのが欲しくて役所にまで行ってみました。
そうやって調べている内に判ったのは南平小学校開校前後で道路形状が異なっている事でした。
それを踏まえて消えた踏切を調査していきたいと思います。



昭和20年代の写真には写っていませんが30年代の空中写真では14号の新宿寄りに
踏切を確認する事ができます。畑の中のあぜ道がそのまま続いてる様にも見える為に完全に歩行者
専用と考えられます。畑(田んぼ)は時代と共になくなり踏切としての役割も無くなったのではと推測します。
もちろん13号踏切上下の道路などは当時存在していません。
右写真は現在の同箇所を南側から撮影したもので中央の御宅辺りに踏切があったものと推測。



高幡12号踏切は13号から数十メートル新宿寄りに存在していました。青いラインは昭和20年代から
存在している道路です。もちろんここら辺は全てが田んぼであった為に現在の住宅道路と同じ位置という訳では
ないようです。旧写真を見ると少しカクッカクッと道路が曲がった状態で12号踏切に繋がっていました。



11号踏切の位置も昭和20年代の空中写真で確認する事が出来ます。現在位置の写真を見ると
一見同じポジションに道路があるのでそれが名残なのかとも思いましたが家一軒分程ズレている様です。
この踏切も田んぼへ行く人専用の歩行者踏切と思われ南側は道路に接続している様には見えません。
右写真中央の家くらいから踏切が続いていたと思われます(写真はGoogleよりスキャン)。



そして当方も目からウロコだったのがこの部分で、南平小学校開校以前は道路がこの様な形状になっていた事。
もちろん小学校が建つべき所は全てが田んぼ。現在の線路北側に存在する道路も田んぼという状態。



左写真は線路の北側から高幡不動方を向いている画像(Googleより)。
昭和30年代中盤には道路が整備されこの直進道路が出来た様ですが昭和20年代前半に道路は無く
一度線路を渡り数メートル先で再び線路を超えるという道路になっていました。
よって写真に写っている自動車の奥に踏切があったという事になります。若干ですが怪しい用地もありますが
因果関係は不明なので明言は避けます。写真右は南平小学校の体育館裏手に残る9号踏切跡地です。
ここは以前この記事を書いた時から怪しいと思っていましたがビンゴ、ただし道路形状までは想像付きませんでした。
現在は直線道路が続いていますが踏切が現役の時はもちろん直進道路はありませんでした。



当時の写真を掲載してみます。まぁもう何というか・・・何もないですね。現在は中央に南平小学校があります。



9号踏切を渡り道路は再び線路の北側へ。ここからは線路と平行して道路は高幡不動方へと
続きますが数十メートルで再度踏切(これが8号)を渡り線路南側へと移ります。ここには今も小川が流れていますが
その川を渡っていたと思われる橋がそのまま残っています。右写真は線路北側から高幡不動を向いたもの。
8号踏切は写真の右丸部へ続いていたと思われます。現在も残っている橋の写真はコチラに。



ここら辺は現在は小学校の通学路になっている所ですが踏切廃止により線路向こうに行くのが大変に。



こちらは現在も使用されている高幡不動7号踏切。
この7号踏切の次の使用踏切は4号なので5&6号が消えた事になります。



旧写真と照らし合わせるとどうやらココが旧6号踏切と予想されます。
上の道路は高幡橋が新たに掛け替えられた際に出来た道路なので比較的新しいもの、当然ながら踏切が
使用されていた当時には存在はしていません。現在この橋の線路向こうに道路はありません。



高幡不動9号踏切同様に当時の面影を残す5号踏切跡。この踏切の廃止は高幡橋の架け替えによるもの。
日野駅方から続く川崎街道は浅川を高幡橋で渡りますが架け替え以前は踏切で渡っていました。
比較的新しい踏切の廃止なので当時の様子も何と無く雰囲気が掴めます。



旧5号踏切から高幡不動方へ歩く事数十メートルで3号と4号踏切に到着します。
ここも古くから道路拡張をしていないのでかなり細く車では走りづらい箇所になっています。



実は高幡2号踏切がかなりフワッとしています。
昭和20年代の写真を見てみると高幡不動駅の西側の留置線がまだ存在しておらづ全てが田んぼとなっています。
その田んぼの周囲のあぜ道がこの踏切に繋がっておりほぼ農道踏切状態なのが確認できます。
西側車庫が出来た正式な年は不明ですが昭和30年前後と想像できます。車庫もこの踏切手前迄となっており
昭和30年代中盤の空中写真を見ても踏切を確認する事が出来ました。



高幡1号踏切は現在の車庫の中心を突っ切る様に存在していました。
現在の地図に踏切を入れたものと当時の空中写真を並べてみました。のどかな風景です。
しかし昭和38年の空中写真を見ると西側には大きな車庫が出来ているのにも関わらず踏切が写っています。
車庫はあるものの電車の本数も多く無く、そして車庫内の車両を踏切上に停車させない様に止め
踏切としての機能を果たしていた、という事なのでしょうか?。ここらの事情は当時働いていた人にしか判りませんね。



この踏切へのアクセス道路は現在も残っています。現在は本線と車庫内の線路合わせて11線超えないと
向こう側へ行く事が出来ません。下写真は現在の空中写真に当時の踏切を記載してもの。青線は当時からある道路です。



前回高幡不動〜南平間の16個(以上かも)の踏切を調べたのは2006年1月で約13年前でした。
当方は南平小学校を卒業しているので子供の頃から自転車でよく走っており周囲の光景は濃く記憶に残っていますが
8号踏切に繋がっていた川を渡る橋などはその頃から何も変化していません。という事は逆に昭和20年代から
現在まで「当時のまま」という可能性もあります。

しかしながら14号と7号との距離が空きすぎている為に地下通路でも作ればユーザー側としては
かなり便利になるのではないかと思ったり。更なる新しい情報がつかめ次第更新してみたいと思います。



南平〜高幡不動間の踏切を記入してみました。




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