幻の廃線

京王線において「廃線」というと真っ先に「御陵線」が挙げられますが、線路の移設によって「旧軌道跡」という呼び名を廃線と
結びつけるのであれば「笹塚〜新宿」間の旧軌道跡や四谷新宿駅からJR南口の陸橋を渡る所なんかも「廃線」というのかも知れません。
その他には「京王八王子〜東八王子」間や「仙川〜調布」間などもそれに含まれるのではないでしょうか。

井の頭線においては支線が無い事から「廃線」はありませんがちょっと面白い軌道がかつてありました。この「幻」とも言える線路は
現在の「新代田駅(旧代田二丁目)」と小田急線の「世田谷代田」を結んでた路線です。この線路は戦争で電車のほとんどを焼かれてしまった
帝都線が小田急から応援の車両を搬入する為に軍が敷いた路線でした。あくまで「旅客運営」が目的ではなく
車両を移動させる橋の様な役割をはたしていました。以下、本に掲載されている文章を引用してみます。

*1「日本の私鉄より」

昭和20年5月25日の東京大空襲で壊滅的に被災した井の頭線は2両で運転を再開、6月以降小田急から10両、国鉄元青梅型車4両の
応援入線を得、初の木造車も見られた。昭和21年4月から東横、京浜線等に予定された新車12両が転用搬入された。1700・1710型である。
こうした車両交流用の連絡線が「代田二丁目〜世田谷代田(小田急)」間の被災地を通り陸軍工兵隊の手で急造された。
昭和28年に撤去されるまでの間、応援車返却、新車搬入の他、経堂車庫転車台による1700型転向工事など度々役立った。


*2「あいぼりーより」

終戦直前の1945(昭和20)年5月24日から25日にかけての東京大空襲では「永福町工場」が直撃を受けて、保存車両31両のうち
24両が全焼。残りの車両もそのままでは運行出来ない程被害を受けました。当面の運行に使えたのはたまたま「渋谷〜神泉」の
トンネル内で焼失を逃れたわずか2両だけでした。輸送力回復の為に代田二丁目(現在は新代田)駅と小田急線の世田谷代田駅の間の
焼け跡に急遽車両搬入用の連絡線が設けられ終戦をはさんで計10両が入線しなんとか急場をしのぎました。


*3「京王帝都より」

太平洋戦争の終盤、昭和19年暮れから米軍機による本土空襲がひんぱんになり市街地はB29形爆撃機による焼夷弾の雨に見舞われた。
東京でも市の中心部を走る東京都電の被害が酷かったが私鉄では5月25日の空襲の時、永福町の車庫において多数の電車を焼失した
井の頭線が一番酷くやられ31両の在籍車両のうち助かったのはたった7両という惨状だった。

井の頭線は現在もそうであるが1067mm軌間の鉄道でありながら国鉄や他の私鉄との連絡線が設けられてはいない。
このとき大東急という大きな企業体にあったことが大いに救いになっている。小田原線(現在の小田急線)の世田谷代田から
井の頭線の代田二丁目(現在の新代田)まで軍隊の手をかりて急遽連絡線を施設、20年6月に完成した。小田原線の車両(青梅鉄道の買収車)
が助っ人として入線し東横線、京浜線用に予定していた車両もデハ1700形、デハ1710形としてやってきた。小田原線と国鉄の車両は
返却されたがデハ1700・1710形は東急分割後も残り台車が広幅用だったこともあってのちに京王線のローカル用に転用されたりもした。


*4「あいぼりーより」

戦争により井の頭線の車両も大きな被害を受け急遽小田急線の車両を入線させる為に「世田谷代田」から井の頭線「代田二丁目」までの間の
焼け野原に連絡線が敷かれていました。この連絡線には架線が無かった為に小田急線の線路から手押しで車両を井の頭に入れたそうです。


以上が手元にある資料です。手押しで入線させていた事・31両中2両だけが助かった空襲の事、それもトンネル内とは驚きでした。
上記の「#4」はあいぼりーの総集編にて杉並区在住の藤川さんが当時の下北沢駅近辺についてを語っていた文の引用です。

線路がどの様に敷かれていたのかが判る航空写真を見つけたので添付させておきます。

連絡線の見える航空写真




上写真は代田二丁目駅(現在の新代田駅)からの撮影で右手に小田急へと分岐していく連絡線が写っています。




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