京王帝都の思い出

京王を使いはじめてもう何年になるだろうか。少なくても30年以上は利用している鉄道会社で実家も南平駅近くだったし初めて一人暮らし
をしたのも上北沢駅周辺でした。その後に2回引っ越しをしたけれど全てが京王線沿線だった。よって通勤・通学で京王以外を利用した事が無く
私の人生と共にあると言っても過言では無い(かなり大げさだが)のが京王なんです。そんな京王を八王子から思い出を綴って新宿へ向かってみます。



京王八王子駅は高校の3年間、毎日利用した駅でかなり馴染みはありましたが逆にその3年間以外はほとんど使用した事が
ありませんでした。いや、小学校の低学年の頃に近所の友人と遊びながら「英語」が学べる所に半年程行く時にも使って
いました。共に駅がまだ地上時代の頃で1面2線のホームが東西に延びていました。1番線は6000系特急、2番線には5000系
の各駅停車、というスタイルが心に残っています。高校卒業近くに地下工事が始まり1番線の下に空洞が出来ているのも
見た覚えがあります。小学生の時に利用していたのは記憶もうっすらで当時の国鉄八王子駅はまだ駅ビルではありませんでした。

京王八王子駅を出ると右手にカーブをし国鉄中央線の下を潜り横浜線と並走していきます。私の中では横浜線は既に103系
になっていましたが5色を奇麗に配色した電車が走っていたりととてもカラフルだった記憶があります。また横浜線は八王子
と橋本までがまだ単線運行だったのも懐かしい思いでです。横浜線との並走が終わると左へカーブして北野へ到着します。
北野は高尾線との分岐駅で一段高いホームに緑色をした電車が止まっていましたしホームは木張りでした。構内踏切を渡り
高尾線に乗り換える方式でした。その次は長沼。この駅のホームの北側には民家が隣接する形でくっついていたのですが高架
工事により何処かいってしまいました。今でも閑散とした駅周辺ですが昔はもっと何も無く周囲が見渡せたくらいでした。


(長沼→平山城址公園間を行く6000系)

長沼を出ると日野市へ入り線路は左手にカーブし平山城址公園駅へと入って行きます。京王新線を除いての駅移設としては
比較的新しいですが10両対応ホームとなった現在ではあまり判らなくなってしまいました。この駅の裏手には高校の先輩が
住んでいましたが今も居るかは不明です。駅名の「平山城址公園」はかなり離れた山の中にあり歩いて行くにはかなり辛い
所にあります。ここから線路は一瞬右にカーブした後長い直線で南平へと入って行きます。この長いストレートには自動車が
通れる踏切が1カ所しかありません。かつては歩行者用に地下通路がありましたが閉鎖されてしまいました。最近も南平8号
踏切が閉鎖されこの区間の踏切は3カ所にまで減ってしまいました。直線が終わると左に曲り南平駅です。現在は改札が地下
になっていますか昭和50年代は地上改札でした。自動発券機が2台しか無くトイレも汚い小屋みたいで新宿方面には構内踏切
を利用して行くスタイルでした。南平を出るとストレートが続き南平小学校の裏で緩く右手にカーブ描いていきます。この
区間は本線でもっとも距離が開いておりストレートも長い事から通過電車の速度はかなり速いと思われます。南平小学校は私
の母校でトイレから良く電車が見えました。学校近くにあった養鶏場はマラソン大会の時には鼻をつまんで走らないと臭い程
の臭いでしたが現在は無くなり住宅になってしまっています。高幡7号踏切は向島地区へ通う生徒の為に「みどりのおばさん」
と言う児童が踏切を渡る際に注意してくれる人が居て専用の小屋もありました。その近くにはバイクの解体屋「ウエマツ」が
ありポンコツのバイクが山積みになっていたのも懐かしい思いでです。その後は直線で高幡不動駅へ進入していきます。

高幡不動駅は最近は橋上駅舎になってしまいましたがそれまでは地下通路がある駅で昔の香りがしていましたがそれも過去の話。
1番線には当時旧型電車が停車しており動物園側には短いながらも留置線がありました。駅を南北に横断している県道もかつては
踏切で京王を跨いでいました。その踏切の北側には砂利積み込み施設がありデトが止まっていたのも覚えています。


(高幡不動駅工事中)

高幡不動を出ると左に留置線が平行しますが本線側2本の留置線はかなり後から増設された物でした。そのまま直線で百草園
へ入り右へカーブ、続いて左へカーブして聖蹟桜ヶ丘へ入っていきます。私の子供の頃の記憶では駅には京王ストアくらいしか無く
優等列車が止まるには寂れた駅だと感じた物でした。昭和61年頃に「スクェア」が出来て駅前が発展していく事になります。
桜ヶ丘を出ると90度北に方向を変えて多摩川を渡り再び90度方向を東へ変え中河原です。中河原駅の桜ヶ丘側には意味不明の
渡り線がありました。線路は再び北へ向きを変えて分倍河原へ到着。南武線との乗り換え駅ですがこの駅は京王が国鉄の改札
を委託されており自動改札導入前は国鉄のホームへはスルーして行く事が出来ました。立ち食いソバ屋「深大寺ソバ」があった事を
知っている人ももう少ないのではないでしょうか。その後右へ緩いカーブをして府中です。地上駅時代は2面3線の記憶しか無く
1番線が無かったのが不思議でした。北口に引き換え南口は寂しい状態でした。高架工事末期は確か下り線が先に高架になり上り線
が後から追いかける様に高架になったのだと思います。当時の府中駅は下り線に退避線が無く特急の各駅停車追い越しは東府中で
行っていました。東府中は競馬線との分岐駅でこの支線の終電が21時代と言うのを最近知り驚きました。東府中と多摩霊園は直線なので
駅が見える程です。多摩霊園を出ると左カーブを曲り西武鉄道を跨ぎます。路線の交差をするのに駅が無いのは子供ながらに不思議
でした。武蔵野台はあまり昔と変わらない風景を残している数少ない駅だと思います。飛田給は味の素スタジアムの落成により大きく
変わってしまいました。あの狭っ苦しい駅が良く2面3線の駅になったと関心してしまいます。飛田給→西調布間も駅間が短くすぐに
到着。ここで中央高速の下を潜りますが西調布の駅は10両対応化により高速下にまで延びて来てしまいました。次の調布は府中からだと
約7分くらいで到着、2面2線は昔からですが現在西調布側にある保線引き込み線は工事前は相模原線側にありました。調布駅の南口には
かつては駅前広場があって小さな噴水なんかもありました。調布を出るとすぐ左に空き地のスペースがありますがこれは大正時代に
京王が甲州街道の北を走っていた当時の分岐部分ですが地下工事でこの跡も無くなる可能性があります。布田駅の下りホーム裏には
確か墓地があったのですが・・・国領は2面2線の平凡な駅で昭和時代は駅前は今程栄えていませんでした。国領から柴崎は途中に仙川を
渡るストレート。柴崎駅の北口には大きな桜の木があります。そのまま坂を上りつつじヶ丘。この駅も10両対応化により駅改良をかなり
してきた経緯があります。また現在は急行が停車しますが以前は急行は通過し変わりに通勤急行(今の準特急的な役割)が停車すると
言うちょっと変わった駅でした。駅を出るとストレートが続き仙川手前で右にカーブ、ここが調布から別れた旧線との合流地点になります。

仙川駅は以前は1面2線の島式ホームでしたが北側に新・ホームが設置され上下線で別のホームを使う様になりました。仙川と千歳烏山
間はストレートですが勾配が結構ある区間で千歳烏山から仙川方を見ると電車がどんどん登って来るのが判ります。烏山を出るとしばらく
ストレートが続き右へカーブをする所で芦花公園駅。でも公園は駅からは全然遠い所にあると言う不思議な駅。この駅はカーブにある為
にホームと電車との距離が出てしまう。芦花公園も10両対応ホームになりかなり千歳烏山側にホームが延びました。右へカーブして八幡山。
この駅は環状8号の道路拡張の為に高架駅になりましたが高架になった当時は2面2線の対抗ホームで後から優等列車の通過線が出来て島式
ホームになりました。これにより使われなくなった北側のホームはかなり長い間そのままの状態で放置されており時々CM撮影などで使用
されていましたが解体されてしまいました。八幡山を出ると高架を降りて上北沢へ。この駅も10両化前は構内踏切が残っており改札がホーム
中央に設置されていました。そのままストレートで桜上水駅へ。この駅は若葉台工場が出来る前に工場設備のあった場所でかなり大きな駅
でした。東京都世田谷区の一等地、それね周囲は完全住宅地で道幅も狭いこの区間に良く鉄道車両工場があったと思わせます。駅の新宿寄り
にある踏切の道路は水道道路で現在の住宅展示場が基地の跡地です。ドーム型の整備場がありましたが若葉台工場の完成により消えてしまい
ました。また現在も残る東側の3本の留置線の内の北側2本にはドームが付いていたのも覚えています。名残として車体の下に潜り整備する
施設が今も残っています。因に開業時には工場の西側末端にターンテーブルもあった様です。今は数本の留置線が残るだけとなりました。


(桜上水駅東側に残る検査区の名残)

桜上水を出るとほどなく下高井戸。この駅も大きく左にカーブしている途中にある駅です。そのまま明大前へ。ホームの長さが変わった
くらいで駅に特に大きな変化が見られない様な気がしますがいかんせん記憶がありません。明大前を出てゆっくり左へ曲り代田橋。この駅の
笹塚側には環状7号が走っておりこれを乗り越えて笹塚へ。笹塚駅が地上駅の頃も通過ではありますが通っているはずですがこちらも記憶が
ありません。私の記憶での笹塚はやっと都営新宿線が開通する、と言った時でまだ京王新線だけがトンネルで本線はしばらく地上を走って
いた時でしたがその後現在の様に改良されました。笹塚駅を出るとすぐに幡ヶ谷だったと記憶、幡ヶ谷を出ると左に甲州街道が見えてきました。
当時は電車を跨ぐ為に歩道橋が掛けられておりこれを通過すると電車は地下へ入って行き初台駅でした。現在の初台は新線に移設されてしまい
ましたが旧駅は今も資材置き場となり本線のトンネル内にそのまま残っています。終点新宿は4線時代の記憶は無く今と同じ3線構造ですが
まだホームが短い頃を覚えています。またタイルも古くさいタイルが敷かれていました。このタイルは旧4番線の末端の掃除用具置き場で今も
見る事ができます。それと新宿駅と言って忘れられないのがX字の階段を上がった改札外にあるパンダスタンプでしょう。もう知っている人
も少ないかも知れません。と子供の頃の記憶を書き綴ってみました。当時は2000系・2010系・5000系に6000系が優等列車でした。


(懐かしき新宿駅改札口)




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