相模原線・回想

以下の文は74年度「鉄道ピクトリアル」の文章と最新の文を組み合わせてアレンジさせてあります。
尚、記述の内容は74年度の「調布〜京王多摩センター」間の話しとなっています。


京王線の支線相模原線の当初の計画は調布〜相模中野間の全長29.4Kmでした。この計画線の地方鉄道敷設免許申請は古く昭和39年1月20日でした。
そもそも相模原支線の建設計画そのものは「京王電気鉄道」時代からのものでした。戦前の京王線は新宿と西多摩の要衝、八王子を結ぶ
京王線を幹線として営業していましたがすでにこの当時から西多摩地区だけでなく南多摩地区へも路線を延長しようとする計画があり、
現在の聖蹟桜ヶ丘から由木街道沿いに橋本に至る路線が真剣に論議されましたが戦局の激化と経済統制の強化、資材不足等により
相模原線の敷設そのものの話しは消えてしまいました。

再びこの相模原支線の話しが出たのは昭和38年7月の「新住宅市街地開発法」の交付のもと多摩ニュータウンが建設される様になってからでした。
交付からわずか2年で免許更新作業に入っています。この時に分岐駅は聖蹟桜ヶ丘から調布に変更されてしまいました。
理由は「あまりにも広いニュータウン全域が鉄道のサービスを受け入れやすくする為」「南武線しか無い稲城市・川崎市北部への都心への
交通の便を計る為」「将来的に輸送力増幅となった場合の新宿-調布間の複々線はやむ得ないとしても調布-聖蹟桜ヶ丘の複々線は用地買収が困難である事」
が主たるものだった。しかし聖蹟桜ヶ丘から分岐していたと考えるとどのようなルートになっていたのか興味がありますね。
現に聖蹟桜ヶ丘から多摩センターまでの距離は比較的近いですから実現していれば「稲田堤」「ランド」「若葉台」「稲城」は存在しなかったかも?。

昭和46年4月、京王多摩川-ランド間の2.7Kmの開通時点で「ランド-稲城」間は高架橋など一部をすでに着工していたが
開業区間全域に渡って本格的に着手したのは47年10月でした。その後工事は順調に進みますが「稲城-若葉台」間の一部、
約350mの区間を地主がどう説得しても土地を手放してくれづ土地収用法をバックに和解するまでかなりの時間を割いたと言われています。
また昭和48年の石油ショックで一時期資材調達に困難を生じたりと永山までは小田急が一歩先じて京王よりも4ヵ月早く開通してしまいました。

調布駅を出ると方向を90度南へ向けて走り出す相模原線。小さな踏切を幾つか超えるとすぐに高架になる。昭和44年5月に高架になった
京王多摩川駅を経て多摩川を渡り南武をオーバークロス。稲田堤を超えるとしばらく終着駅だったランドへ到着。今回の新規開通の起点となった
京王読売ランド駅は一部高架、一部盛土の2線駅ですが将来性を考えて待避線を設置可能な4線駅になる様に設計・構築されています。
ランドを出ると構内上り線の一部が未構築で単線になりますがすぐに複線に戻り、高架橋を西へ進みます。切り通し区間の入り口で
稲城駅に到着します。この稲城駅は丁度切り通し部分にあって橋上駅舎になっています。尚今回新設された「ランド〜多摩センター」間
のホームは全10両対応ホームで210m以上となっています。この稲城駅が完成した当時はまだまだ住宅・道路の開発が進んでなく
駅だけがポツンと孤立している様に見えたそうです。


1974年開業前の稲城駅

稲城駅を出ると武蔵野貨物線の下をアンダーパスし鶴川街道と併走しながら西南進する。当初の計画ではこの区間は約2.5Kmの最長の
直線区間になるはずだったが軌道予定上に天然記念物の「かやの木」がありこれを避けて通る様になった為「く」の字に半径4Kmの
曲線を入れる事を余儀なくされたと言います。この切り通しを通過すると路線は半径900mのカーブを大きく右へ曲がりながら高さケタ10.5m
という一番高い道路橋で鶴川街道を超えて若葉台駅に進入していきます。この駅も半分高架で半分が盛土というタイプの駅で車庫の引き上げ線を
合わせて5線高架となっています。しかしこの駅は今回開業する(ランド〜多摩センターを指す)駅周辺の中ではもっとも開発が遅れている地域で
1日の平均乗り降り客は1000人未満と京王では一番少ない駅と予想されていました。またこの駅は西北方向に車両基地を建設中で、
開業当時では8両編成6本を収容出来る車庫線が完成しているがこれを拡大工事中で最終完成時には10両編成20本、200両の収容線と
検車・工場施設が完備する予定です(もう完成しています)。この基地は東京都と神奈川県に跨る為に数回の設計変更が行われてきました。


1974年開業前の若葉台駅。停車は試運転の5000系

若葉台を過ぎると再び右に半径900mの大きなカーブを描きながら方向を西北方に転じ、左手に小田急多摩線の接近を見ながら「若葉台第一隧道」へ。
この距離およそ450m。出口で小田急と完全併走という形になりそのまま「若葉台第二隧道」へ。この距離約400m。この若葉台第二隧道は
全体がスラブ軌道区間となっています。第二隧道を出て高架で都市計画街路・多摩2・1・6を超えると京王永山駅に到着となります。


1974年開業前の京王永山駅。停車は試運転の6000系

京王永山から終着駅(1974年現在)の多摩センターまでは全線がほとんど高架になっています。永山とセンターの間には「京王永山変電所」
があって今回施設された区間での唯一の変電所になります。京王多摩センター駅は1974年新設区間の終着駅であると共に将来その名の通り
ニュータウンの中心なる駅で中階のコンコースとブラットホームの間には将来エスカレーターが設置出来る様に工事準備がされています。


1974年開業前の多摩センター。信じられない程開けていない


相模原線敷設当時、無人駅化がささやかれたが結局有人になった。併走している小田急多摩線は「五月台駅」
「黒川駅」が無人だった為に相模原線でも無人化の案が検討されたが以下の理由により却下となった。
「乗り降り人数最小の若葉台駅には車庫線があり信号所扱いをしている事」
「多摩センターは終端駅で終始ポイント操作を必要とする事」
「稲城・永山の両駅は比較的乗降人数が多い事」
だそうです。こうして京王初の無人駅は見送られました。相模原線はこの後昭和63年に「多摩センター〜南大沢」間を開業し平成2年には
「南大沢〜橋本」間を開業、翌平成3年には「多摩境駅」が開業し全線開通となりました。当初の計画では相模中野までが
予定線として組み込まれていましたが京王は昭和62年に免許を失効しています(小田急も失効)。




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