妻沼線(熊谷線)

妻沼線は東武熊谷線の事でどちらが本名なのかは不明ですが埼玉県の熊谷と妻沼間約10kmを結んでいたローカル線でした。
途中駅は上熊谷駅と大幡駅のみで始発駅の熊谷と上熊谷駅はそれぞれ連絡している国鉄と秩父鉄道に駅業務を委託していました。
正式な廃止は1983(昭和59)年となっており廃止後25年以上経過しています。では熊谷側から歩いてみる事にします。



秩父鉄道と分岐し国鉄高崎線を跨いでいた当時の写真です。廃止8年前の様子です。



JR熊谷駅の秩父鉄道のホームへやってきました。右奥に見えるのが国鉄線で上を新幹線が走っているので
かなり薄暗い印象を受けます。開業時は秩父鉄道のホームを妻沼線が借りる形で供用していた。



熊谷から秩父鉄道に乗り先頭車両に被り付きます。秩父鉄道は旧国鉄101系を今も使用しています。
JR東日本から103系が消えた今、これもまた凄い話だと思うのですが。で、熊谷駅を出た後に上下線の線路
はしばらく平行していますが新幹線を超えた少し先で単線になります。しかし良くみると線路は直線に続いている
のが判ります。これが妻沼線の廃線跡となります。奥に上熊谷駅が少し見えていますがそこまでこうして続いてます。



熊谷〜上熊谷間です。右2本はJR線、中央に残る錆びた線路が妻沼線跡となります。
踏切部分は線路が剥がされていますがそれ以外は当時のまま、と言った感じでしょうか。
この上熊谷駅は妻沼線営業時は1面の島式ホームでしたが廃止後はホームに柵がされるだけの簡易処置がされています。



じきにJR線が右手に分岐していきます。奇麗だった線路跡も「廃」の香りが強くなってきました。



秩父鉄道の「上熊谷〜石原」間の車内から廃線を撮影したもの。かなり長い区間を秩父鉄道と共に並走していた
事が判ります。錆びた線路に覆い被さる雑草が廃線の味を引き立ててくれています。左の高架は新幹線。



はるか奥にうっすらと石原駅が見えている所まできました。線路がこうして確認出来るのはこの踏切跡までで
妻沼線の路線は右手にカーブをして行くルートになります。右奥に見える白いフェンスの中に消えて行く感じでしょうか。
今回の調査では熊谷→石原を電車内からウォッチし石原駅からこの踏切まで歩いて戻り廃線跡を調査していく事とします。



秩父鉄道と平行している線路が確認出来る最後の部分まで戻ってきました。この雑草を刈ると線路がどう残っている
のかが気になります。この区間で妻沼線は右へカーブしていく為にそのルートへ向かってみる事にします。



フェンスの裏手からは丁度遊歩道が開始される状態になっていました、そう言う事か・・・。



ほんの少し進むと踏切をあしらったオブジェが登場しますが作り物です。ここに実際に踏切があったかは不明です。



確実に電車を意識したもの。"妻沼"という文字も入っています。この遊歩道は「かめのみち」として続いています。
これはここを走っていた電車の愛称が「かめ号」であった事に由来しているのでしょう。亀の様に遅かったのかな?。



かつて国鉄線を跨いでいたところ。今では築堤も整備され高さはかなり低くなっている様でした。
この周辺は東武鉄道の境界を示す杭や鉄道柵がそのまま残されています。奥が妻沼方面となります。



自分もJR線を超える為に迂回をし踏切を使い線路を渡ります。当時物と思える柵がそのままです。
左上の枠内はこの柵周辺に残っていた"東武"の文字の入った境界石。京王と異なり社名が入るタイプだ。



途中の遊歩道板には電車の絵柄入りもあった。ここを単行の気動車が走っていた事実を知る人も減って来ているのかも。



上熊谷と大幡の中間地点程にやってきました。この様な遊歩道が続きます。
途中には「かめのみち」の由来についての看板もあり簡易的な説明が書かれていました。



少し進んだところ。ここら辺は単線の路盤にしてはかなり広く感じられました。当時の線路状況は
良く判りませんが遊歩道作成時に整備をし広くなったのではないでしょうか。左手には鉄道柵が残ります。



突然終わる遊歩道「かめのみち」。一気に廃線当時の"かほり"がしだす。



この一画だけは何か変わっていない様な気がするのですが。いい雰囲気が残ります。



ほどなくして登場する看板。読んで見ると妻沼線廃止後にも線路跡地は熊谷市に返却されてない様で
東武鉄道が市に借地としているらしいです。となるとあの東武の境界石は現役物となりますか。
この先も整備されそうですが看板の汚さからして何時からの計画なんだと突っ込みを入れたくなりますが。



大幡駅跡。左手に並ぶ住宅の手前に1面のホームがありました(丁度歩道となっているところ)。
先に見える道路は国道17号のバイパスです。開業時こそ有人駅でしたが後に民間委託駅となった様です。



一応営業時の大幡駅の写真。駅舎っぽいのが写っているのが判ります。



汽車は来なくなりホームも無くなり線路も無くなりましたが残された鉄道柵が当時の構内の様子を
何となくではあるが想像させてくれる。ここには踏切があったのだろう、と想像出来るレイアウト。



大幡駅を出てから妻沼駅まではかなり距離がありますがそのコースはほぼ直線です。
ここは大幡駅を出てしばらくの所ですが線路跡脇は田んぼが広がるのどかな風景となっています。



道路脇に残る「東武」と書かれた境界石。



県道との交差点。当時は踏切があったと思われます。奥の農道みたいな所が線路跡で手つかづ状態です。



その農道の様な当時物の路盤も150m程しか無くその先は何と普通の自動車道に整備されてしまい
鉄道廃線の面影など全く無くなっていました。写真は妻沼駅方面を向いていますが右の田んぼだけが当時のままといった感じです。

そこでこの交差点部分をちょっと年代別にどう変化しているのかを調べてみました。クリックで拡大します。



昭和49年は廃止10年前なので現役の時の状態である。写真は上が妻沼方となっており昭和61年では廃止となっている
為に線路か無くなり草に覆われているのが判る。平成に入ると線路跡は奇麗な道路になっている。ここを歩く事になる。
写真に入っている「当時の雰囲気を残す」所は2枚上の写真の手つかず状態の道をさしています。参考までに。



県立妻沼高校の横を走る道路(廃線跡)。この高校は昭和54年開校との事なので初期の生徒は教室から
コトコト走る汽車を見る事が出来た訳だ。きっとのどかな雰囲気であったのだろう・・・と想像をしたり。



妻沼駅の少し手前です。左に分岐していく道路が当時からあったかは不明ですが昔から高低差はあったみたいです。



終点のホームがあった場所ですがこうして見ると全然当時の面影がありません。終着駅でしたがホームは末期には1面1線、その前は側線
としてホーム前まで線路が来ていましたのでこの道路部分全てが鉄道用地でした。なので雑草とバラストを含めかなりスペーシーな物でした。



終点の先には線路が延びており機関車の寝床があった様ですが現在はこんな状態でした。

妻沼線(東武熊谷線)は昭和18年に開業された路線です。当時はこの妻沼から先の群馬県太田にあった中島飛行機工場
への人員輸送を目的として建設された路線でした。この中島飛行機工場では戦闘機などの製造を行っていた様で、ある意味
軍専用線的な役割を果たしていました。工事は2期に分けられ第1工期として熊谷〜妻沼が敷かれ次ぎに妻沼から新小泉
間が敷かれる予定となっていました。しかし2期工事開始までに終戦となり後者は未成線となってしまいました。
現在でも利根川には1脚のみ橋桁が残っているとの事です。妻沼線そのものが無くなってしまった為に使われる事はもう無いかと。



廃止8年前の妻沼駅周辺です。バックする形で機関庫が見えています。



旧妻沼駅近くに保管されている当時の気動車。以前は雨ざらしであったが屋根付きへ移設となった。説明板も。



昭和29年製造のキハ2000、重さ22.50t。



保存車は内部も一般公開されていました。シートの色調が懐かしいです。湘南スタイル(当時は結構主流だった)と
片側運転台。内部には木造部品も使われていました。クロスシートだったとは思わなかったです。



同車の運転台。



保存車の中に飾られていた写真。営業最終日の様子だろうか。ローカル鉄道の最後は何時も華やか。




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