神奈川臨海鉄道水江線

神奈川臨海鉄道の1つ「水江線」。川崎貨物駅から川崎市水江町へと続く謎の線路。
初めてここを訪れたのは2005年頃だったと記憶しています。水江線と言えば謎の路線として有名。
それは線路の行き着く先には「何もない」からです。いや、正確には「無くなってしまった」という方がよいでしょうか。

下の写真は水江線の線路が最後まで残っていた時の川崎市水江町。赤線が線路のあった部分です。



この項では線路のあった時と線路が無くなった時とを比較しながら廃線レポートをしていきたいと思っています。
この水江線の正式な廃止は2017年9月末日となっています。



水江線は川崎貨物駅の一番南側から延びています。写真の手前が水江線の線路です(2009年撮影)。



貨物駅の線路から分岐しはじめたところら辺の様子(2009年撮影)。



貨物駅から並行して走っていた道路と同レベルになった所は踏切でした(2009年撮影)。
この当時、線路は何処の会社にも繋がっていなかったものの乗務員訓練や錆び取り回送的な物が主で
不定期走行ながら生きている状態でした。何度か足を運んだものの走行シーンは見られませんでした。



廃止後はご覧のように踏切手前で線路はプッツリと途切れてしまっています(2019年撮影)。
遮断機に警報機、及び信号ボックス等は綺麗に撤去され道路上の線路も綺麗に無くなっています。



踏切から水江町の方を向いて撮影したもの(2009撮影)。一直線に線路が続いていた。



しかし2019年に訪問してみると、そこに線路はありませんでした。



線路はそのまま真っ直ぐと延びていて水江町を目指します。
左の水色のフェンスの中は川崎市の水処理センターになっていますが2009年当時は
ご覧のように鉄道関係の物も含めて産業廃棄物的な物が線路横に並べられていました。



その廃棄物も綺麗になくなってスッキリとした線路跡地の様子(2019年撮影)。



水処理センター横にあった踏切から水江町方面を撮ったもの。この先は左へカーブしていく(2009年撮影)。



カーブを曲がり日本精塩横へ出ていた線路(2009年撮影)。



ほぼ同地点から撮影した線路撤去後の日本精塩横のカーブ(2019年撮影)。
単線なのに用地がかなりあった。なので更地になると意外と広く感じてしまう。



線路はここからは水江町へ一直線に続いていた(2009年撮影)。



こちらも同じ方向を向いて撮影したもの。線路が無くなって雑草が生えているが他は変化が無い様。



少し進んだ所の様子。奥に機回し用の設備が見えている。
線路の両脇にコンクリートの壁みたいのが張り出しているがこの壁は陸地と運河との境界部分になる所。
写真左が水江運河、右手が入江崎運河です。



この壁が突き出ている部分を空から見たもの。白く◯の付いている箇所。



2019年現在のその部分のクローズアップ。線路のあった所がよく判る。
因みに横にせり出している壁はそのままの状態で残っていました。



丁度運河へ出られる踏切を越えると写真の様に線路は2つに分かれていました(2009年撮影)。
乗務員訓練などで走って来た機関車はここで折り返していくことになります。



既に線路などなくなっておりご覧のありさまに。フェンス横の樹は綺麗になっている様です。



今も残る「工場非常門」の前にあった踏切は2つの線路を跨ぐものだった。



門はあれど線路は無く。ただし線路跡はコンクリートで埋められた為に「跡地」は確認できています。



機回し設備の奥を撮影したもの。実はもう線路はすぐそこで終わっていたのでした。



東亜石油入り口にあった踏切。鉄道用地が非常に贅沢な作りに感じるが・・・(後述)。



東亜入り口の踏切部分は大きく風景が変わっていたが奥の建物はそのまま残っていた(2019年撮影)。



東亜石油入口の踏切から線路末端方を望んだもの(2009年撮影)。



奥に見える踏切の名称は「三洋酸素踏切」。いかにも工業地帯らしい名称です(2009年撮影)。



近くから同ポジションで狙ってみたところ。奥が線路末端です。



線路末端部から望遠レンズで川崎駅方面を圧縮撮影。3つの警報機と遮断機が確認できます。



水江線の廃止決定時の時点では線路はここで終わっていました。
一応「駅」なのでしょうか・・・。ご丁寧に「水江町駅」という駅名標が立っていました。



2019年現在の「旧水江町駅」と言った所でしょうか。跡形もありません。
写真は線路末端があった所で奥が川崎貨物駅という構図です。


これだけ見ると水江線は一体何の為の路線なのか!?と思ってしまいますが
かつては線路は幾つもの支線をもっており色々な企業へと繋がっていました。

川崎の埋め立ては1938年頃から開始された様で水江は1941年に完成、今の工業地帯を築きました。
下の写真は1960年台初頭の水江町の様子です。埋め立て完成から約20年が経過した時のものです。



写真に入っている赤線は今回紹介した廃止された線路ですが過去に各企業へ繋がっていた線路を
白線で描いてみました。物凄い線路の数です。赤線の左側、大きい建物は日本鋼管(当時)製鉄所。
反対右側は東亜石油と大阪製糖(当時)。その他に日本造船・日本鉱業・出光興産などの各会社に線路が繋がっていました。

上記で鉄道用地が広いと記載していますが当時はこれだけの線路が繋がっていた関係から
分岐部分にもっと複雑な配線があったのではと想像しています。その名残なのではないでしょうか。

そして気になる廃止の理由ですがどうやら道路の拡張が理由の様です。
川崎港東扇島〜水江町地区臨海道路の整備概要が発表されています。



となると線路が撤去されただけでなく、そこに鉄道が走っていた、ということが判らなくなるくらいの
工事が行われることになりそうな予感がします。




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