矢口発電所専用線

京浜東北線の「蒲田駅」を少し大船方へ進むと本線から分かれていく線路が存在しますが、これは電車区へと続く線路。
この蒲田電車区が出来たのは大正12年のこと。しかしこの線路、元は電車区へ行く線路ではありませんでした。



大正3年に現在の多摩川2丁目に出来た「矢口発電所」。その発電の為に必要な石炭を運搬する目的で
敷かれた線路がこの路線の母体となってます。上は当時の路線図が掲載されている地図で電車区が出来る以前のもの。
マップを見ても判りますが「鉄道省矢口発電所」と読み取れます。この発電所は鉄道に必要な電力を
発する為に作られたもので現在で言えば「JRのもの」ということになります。



蒲田駅から大船方を撮影したもの。専用線(車庫)への分岐はもっと奥なので
映ってはいませんが最右線路が車庫方へ入っていく線路。



駅を出てしばらく本線と並行して歩くと電車区へと続く線路を踏切で渡る。
踏切名は「御園踏切」。古地図を見ると当時ここに道路が無い為に踏切もなかったと思われます。



踏切に立って蒲田駅方を見たところ。当時はどの様に配線されていたのでしょうか。



電車区横の道から区内をパチリ。E233系のスカイブルーがズラリ。
専用線現役当時とは状況が異なりますが専用線は一番南側(写真だと最左)を走っていました。



電車区を右手に見ながら進んでいきます。予想ですが専用線はこの敷地内の一番手前を走っていたのでは?。



蒲田電車区の末端に来てみました。廃線探索は実際にはココからになります。



現在のマップに線路跡を白線で記載してみました。この先の発電所跡までは遊歩道となっており
航空写真等を見るといかにも「線路跡」というのが見てとれます。



電車区を抜けた線路は○印部へ続いていました。ここは現在保育園施設になっている様です。



保育園前に立って電車区を見たもの。当時の矢口専用線跡が現在の電車区の線路位置と同等とは
考えにくく(なんせ廃止が戦前の大正時代ですし・・・)おおよそ、と考えた方が無難です。
しかし1920年のマップでもこの道路は存在しており踏切があったと思われます。



保育園裏からは遊歩道となり廃線感が出てきます。奥が矢口発電所方面です。



こ、これは・・・。



ココに線路があった証の「エ」マークが残っていました。私が確認した所この路線跡ではここだけでした。



公園入り口部にオブジェとして置かれている車輪。ここは元線路であることを主張しているかの様。



少し進んだ所。定かではありませんがこの一部だけスペースが広くなっており何かの施設でもあったのでは
と想像してしまいます。奥の高く目立つマンション周辺が元発電所のあった辺りになります。



道路を挟み線路跡は続いていきます。遊歩道のセンターに白線があり線路を連想させます。
この白線の幅が1067mmなのか計ってみたくなりました・・・笑。



白線があるのはほんの一部ですがポイントがあったことを思い起こさせるこんな所も。



道路と遊歩道が別々になっている箇所も。車が通るので遊歩道の幅を狭くしたのでしょうか。



この廃線跡の遊歩道は3つのブロック(公園)に分れていますが、最後の「古川児童公園」の終端には車輪の
形をした車止めが立っています。この後の線路は奥の自動車の置かれている所に続いていました。



そして続いていた線路は写真の中央部から出て来ていました。



写真の◯印の所が一つ上の写真の部分なのですが家の向きが線路跡にハマる様に建っているのが判ります。
そしてここから抜け出た線路は当時の発電所施設へと入っていく構図でした。



旧発電所の外周であった道路から線路が敷かれていたであろうスペースを撮影してみましたが
当時の面影は全くもってありませんでした(当然と言えば当然なんですが・・・)。



既に発電所は機能していませんが戦後直ぐの蒲田駅・蒲田電車区・専用線・発電所が判る航空写真です。



途中にあった矢口発電所の全景写真。



貴重な専用線が写った写真も掲載されていました。


全線を徒歩で歩いても30分程度の距離しかない廃線跡なのですが廃止になったのが1926(大正15)と古く
遊歩道として残っているのも奇跡なくらいです。当時モノは「エ」マークのみしか残っていませんでしたが
公園の至る所に鉄道が走っていたんだよ、と言うメッセージが残っている印象です。




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