<16コの踏切を求めて
京王線はとかく踏み切りの多い路線である。これは開業当時の路盤をそのまま使用しているせいもあるし高架・地下のアップダウンが
あまりないからだと思う。新宿駅や京王八王子駅は地下になり八幡山・府中・笹塚などは高架になりかつてあった踏切は大半が消えてしまいました。
現在は西調布〜調布・京王多摩川〜調布・調布〜国領の先までを地下にする工事が
進んでいるがこれが完成したら15箇所もある踏切が全てなくなり交通の便も大幅に改良されるでしょう。
京王線は最近出来た相模原線には調布駅付近以外に踏み切りは無いし動物園線にも無い。高尾線には「片倉一号踏切」の1コのみしか存在していない。
しかし玉南電鉄であった府中〜東八王子間を見てみると駅が高架になったのは中河原(S49)・聖蹟桜ヶ丘(S44)・長沼(H3)
北野(H3)くらいな物だ。ココで駅間の一番ある南平〜高幡不動(2.4Km)間の踏切数にポイントを置いてみる。
南平〜高幡不動間は2.4Kmと駅間もあり全て住宅街を走る為に踏み切りの数も一番多くて良い事になります。京王線の踏切名称はとてもシンプルで
上り側駅名をそのまま名称にし号数で呼んでいます。「南平〜高幡不動」間の踏切の場合は「上り」側になるのが高幡不動になるので「高幡○号踏切」
という呼名になります。このシンプルなシステムにより駅間に何個の踏切が存在するのかが一目瞭然です。で、南平駅の上り側ホーム末端にある踏切を見てみると
高幡16号踏切とあるでは・・・。
コレは「南平〜高幡不動」間に16コの踏切がある(あった)という事。本当なのだろうか??。
上写真は「高幡16号踏切」を新宿方面(右側)へ走る8000系。実はこの踏切は南平駅末端と
隣接している踏切で夜遅くとかはこの踏切がホームへよじ登る事も出来てしまうのだ・・・
やってはいけない事だがこちら側に住んでいる人はホーム西側にしか改札が無いので不便だろう。
さてさて16号踏切から東に150m〜200mほどの所にコチラの「高幡15号踏切」があります。
16号は車1台分の幅でしたがコチラは南平と豊田を結ぶ幹線道路(?)の踏切となっています。
かなり前から区画整理が初められていて近い将来この踏切は撤去されてしまう物と思われます。
(高幡15号踏切は現在無くなってしまいました。)
別角度の写真等はコチラをご覧下さい。区画整理の様子がご覧頂けマス。
続いての踏切は連番の「高幡14号踏切」。この踏切は15号からは数十メートルの距離しかありません。現在14号と15号の間には
綺麗な道路がありますが昔はありませんでした。この14号踏切の南側には現在、数件の家が建っていますが昭和50年代後半は全てが田園風景で
川崎街道から自転車しか走れない程の幅の道がその田んぼの中をクネクネ曲がりながらこの14号踏切に繋がっていました。
まだ「南平体育館」が出来たばかりの頃の話しです。小学校のマラソン大会のコースの折り返し地点が丁度南平体育館前で柵がありUターンしたという記憶もあり。
ココまでは順調なのですが・・・次の踏切を見て仰天です。
その仰天の結果が上の写真。なんと「高幡7号踏切」になっています。という事は「13・12・11・10・9・8号」の6コの踏切は何処へ?
その前にこの7号踏切についての情報をば。この道は北野・府中街道が混雑している時に高幡橋へ抜ける抜け道で地元の人が良く利用している様です。
ココらは「向島地区」と呼ばれていて管理人の小学校の同級生もかつてはゾロゾロとこの辺に住んでいました。
小学校の通学路にもなっている為に踏み切りには手旗を持った「緑のおばさん」なる人が居ましたが現在はどうなんでしょう。
で「抜けている」6コの踏切なんですがこれは「廃止」されてしまった為に抜けているんですね。この高幡14号と7号との間は
かなりの距離が空いている為に間に6コもの踏切があっても全然おかしくはありません。廃止になった時期や理由は不明ですが
中間点にある「南平小学校」の開校も理由の一つではないでしょうか。南平小学校は昭和49年に開校した学校で、この学校に通う
生徒の通学路の確保・安全面上というのもあるかも知れませんがそんな理由で踏切が廃止されるかは判りません。
単に利用者が少ないという理由なのかも知れませんし廃止時期も判らない為にココら辺は強く書くコとはできません。
コチラは南平小学校のプールの裏の道ですが道路形状・ガードレールの設置方法からしてかなり「廃」の臭いがします。
線路には「高幡3曲」のマークが入っている箇所ですが位置・形状からしてもしかしたら廃止になってしまった踏切の跡なのかも知れません。
もう1コ怪しいのは八坂神社のちょっと手前の箇所。上の写真の道をまっすぐ歩くと着きますがかつてこの道と京王線の線路の間には何軒もの
養鶏場があり自転車で走り抜けるのにも鼻をつままないといけない悪臭でした。また小さいながらも会員制のテニス・スクールもありましたが
両者とも無くなってしまいました。しかし上写真に写っている一戸建ての家は最近出来た物で
かつては廃材置き場になっていたこの場所へ行く為に単に橋をかけただけ、とも考えられます。
さて「高幡7号踏切」を通過した京王線はゆるく右にカーブをして高幡橋を潜り
高幡不動駅に進入して行く事になります。次の踏切に行く前に記憶にある「廃踏切」に立ち寄ってみます。
ココは高幡橋の真下をちょっと高幡不動方向に行った所です。橋の下部にある電気屋の横から道路が線路方向に延びていて行き止まり
になっていますが(左)かつてはココには踏切もありました。次の踏切が「高幡4号踏切」の為にこの「廃踏切」の名称は
「6号or5号」という事になりますね。この踏切は写真右の柵の所に繋がっていました(道は川崎街道)。この踏切の道は現在の
高幡橋が完成する前に掛かっていた橋(旧高幡橋?)に繋がっていて交通量も比較的あった様です。当時の橋は道幅が狭く新しく
現在の橋が造られた様ですがその新しい橋の完成によって取り壊された橋と同時期になくなったのかもしれませんね。旧橋はココをご覧下さい。
それで持ってコチラが「高幡4号踏切」です。車が1台通れるかどうかの狭い踏切なのと写真奥から車で進入した場合は突き当たりの
T字路を右左折するのにはかなり苦労させられる中級者向けの踏切(笑)です。写真奥は川崎街道。京王線6000系の貨物仕様
「600系」はこの踏切を渡って左にあるマンションとトヨタレンタリースの間の小道から良く観察する事が出来ます。
そしてこれが最期の踏切である「高幡3号踏切」です。この踏切は4号踏切とほぼ平行に敷かれていて踏切を超えた先の民家専用
となっていて道は続いてはいません。この3号と4号踏切は新宿方から来たこの駅止まりの電車が留置線へ引き揚げる為に渡り線を
越える目一杯まで進んで来る為に踏み切り上で電車がUターンしているのを時々見る事が出来ます。しかしガードの看板が多いな。
この踏切のすぐ先は高幡不動駅の構内になってしまうので一般踏切は絶対にありません。つまり「1号・2号踏切」も現在は存在しない事になります。
しかし1960年代の高幡不動駅の写真を見てみると駅舎は田舎風景丸出しで現在のスタイルとは全く別ものでありこの当時は南平駅側に構内踏切も
写っています。つまり1・2号はココら辺りとかなり関係がありそうです。今は10両編成も停車し構内には留置線が広がり構内踏切の存在などウソの様です。
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