平山城址公園駅いろいろ

京王線の駅の中でもどちらかと言えば「マイナー」な域に入るかもしれませんがなかなか興味をそそるのが「平山城址公園駅」だったりします。
「平山城址公園駅」は八王子市と日野市のほぼ境に存在する駅で各停以外に「快速・通勤快速」が停車します。



現在の平山城址公園駅舎(左)と構内ホーム(右)

「平山城址公園駅」が開業したのは玉南電鉄の開業と同じの大正14年と3月24日となっています。駅そのものの所在地は東京都日野市になりますが
駅開業時にはまだ「日野市」では無く「七生村」となっていたと思います。七生村は昭和33年に「日野町」と合併し昭和38年に「日野市」となっています。

現在は「平山城址公園駅」としている京王線ですが玉南鉄道開業から昭和30年までは「平山」という駅名でした。
この駅名は平安時代の末期にこの駅周辺にいた武将「平山季重」から取られています。この「平山季重」の屋敷は現在の駅前ロータリー部
にあったとされていて現在(平成17年)駅前にある「平山図書館」の裏手にには「平山季重遺蹟之碑」と「季重公霊地碑」が立っています。

駅は昭和30年の9月11日より駅名を「平山城址公園」に改名しました。「城址公園」と言う名前が付くくらいですから「平山城」という
城があったと連想してしまいますが城の創築年代や規模などの細かいデータは明らかになってはいない様ですが城があった事は本当の様で
1590年頃に八王子城落城と共に運命を共にした、とも伝えられています。この「平山城址公園」の場所は山の頂にあり丁度「京王研修センター」に隣接しています。

話しを京王線に戻しますが昔の平山駅は直線の2面2線ホームで旧南平駅・旧幡ヶ谷駅と同様に上りホームに行く為には
構内踏切を渡らないといけないシステムの駅でした。現在の京王線にこの様なタイプの駅は無くなった所を見ると色々苦情があったり
不便性も認めていたのでしょう。もっとも「バリアフリー」などと言う言葉そのものが無い時代だったので当然と言えるでしょうか。



滝合橋から見た旧・ホーム跡

その2面2線のストレートホームだった「平山城址公園駅」ですが昭和51年に現在地へ移設されています。
京王線は「玉南鉄道」「京王電気軌道」時代からを含めて考えるとかなりの駅が移設をしていますが中でも一番最近移設されたのがこの駅だと思います。
移設の大きな理由は「輸送力の増幅」でのホーム延長が1つの理由であり次に駅利用客への利便性向上と題し
駅の改良と併せて移設、駅前に広場(ロータリー)を設置するという事でした。リニューアル駅は昭和51年10月23日開業でした。


旧ホーム跡は何処に

となると気になるのが「旧・ホーム跡」の遺跡探しとなる訳で・・・(笑)。上の写真は平成17年現在の八王子側ホームの末端を
滝合橋上から撮影した物ですが昭和51年というと京王では8両編成を運転させたばかりの時代(8両運転は昭和50年10月〜)
であって特急・急行・通急が停車しないこの駅のホームは現在のホームより相当短かったと想像されます。その末端部分と思われる場所から
旧ホームのあったと言う西方へ約200mばかり徒歩で移動して行きます。しかしまったくと言っていい程検討がつきません・・・。

八王子側ホーム末端から一番近い踏切の怪しい敷地と敷地内にある保線用?の設備の所(下写真)かと思いましたが違う様な・・・。
これは「平山城址2号踏切」からの撮影ですが現在のホームより200m以上離れているし上りホームの用地が確保出来ていない事から違うと予想。



平山2号踏切より

と困っている所へすぐ裏手に住むおばあちゃんが出現したので話しを聞いてみました。やはり永くこの地に住んでいる人に聞くのが一番かと。
・・・で確認してみるとやはり行きすぎていました。教えてもらった場所へUターンします。下写真の場所が移設前のホーム・・・??



旧ホーム入口部と思われる場所

この場所は丁度「滝合橋」の下になる所です。確かに道路の形状が駅方向へ向いていて「ココに駅があった」と思わせる様にも感じられます。
資料を見ると「現在地から200m西にあった」となっていますが10両対応ホームになった為に現在では200mも離れていない気がします。
駅はココから新宿方面にストレートに延びており上りホームに行くには木造の構内踏切を超えていかなくてはいけませんでした。
右写真では8000系が新宿を目指して走っていますが写真の右下に木造の枕木を寄せた様な物がみえます。当時物ではないと思いますが
構内踏切はこんな感じのものでした。また現在は「滝合橋」が旧入口を跨いでいますがこの橋は昭和43年に出来上がっている物で
約8年ほどホームと隣接していた事とな留野でしょうか・・・?

10連対応ホームになった京王のホームですが大抵の駅ではホームの両末端に踏み切りがあったりホームの中間部に地下通路や道路があり
交通の便や地元住民の通る道を考慮してあります。「平山城址公園駅」にもホーム中央部に歩行者・自転車のみが横断出来る通路があります。
この駅はホームの両末端に踏み切りが無い為にこの様な通路が無いとかなりの迂回をさせられる事になりますが
そんな地下通路入り口に立つ3本の柵も古レールを利用していました(下写真)。

   

地下通路入り口にある古レール

昭和51年に移設した「平山城址公園駅」ですが現在の駅前にあるロータリーは無く駅移設と共に作られた物でした。
現在の「平山図書館」の場所には平山小学校がありましたがその跡地と判る様な物はありません。この平山小学校は開校130年近くを迎える小学校で
日野ではかなり古い学校になります(明治6年開校)。この学校の卒業生が記している文に「区画整理でおかぼ作りが出来なくなる」とある事から
ココに学校があった当時は周囲もたんぼであった事が判ります。平山小学校が現在地に移設したのは昭和42年の事で駅移設に伴う「区画整理の為」
という事でしょうか。かつては平山小学校だけでは生徒を補いきれず相次いで「滝合小・平山台小」が出来ましたが最近は
子供も減り平成18年には「平山小学校・平山台小学校」は合併してしまいます。現在学校名について色々ともめている様です。



現在のホームにちょっと細工を。

しかし先日「昭和49年」の平山城址公園駅を上空から捕らえた写真を見てみると「滝合橋」とは一切重なっていない事が判ります。
上記で地元におばあさんが教えてくれた道の位置関係を私が勘違いしていた様でこの航空写真を頼りに再度訪問してきました。



昭和49年の平山駅周辺写真

上がその写真ですが現在の「平山城址公園駅」の駅前ロータリーが工事中となっているのが良く判ります。またそれよりも西側に
旧ホームが写っており滝合橋もしっかり写っています。つまり当時(昭和49年前後)のホームはかなり短くそこから200m程東に移設した新ホーム
ではあるが移設から30年近く経過している内に電車も8両編成→10両編成となりそれに対応するホームへと延長していった為に
新・旧のホームに間がさほど無くなってしまったと思われます。

しかし前回訪問時に教えてくれた駅入り口のあったと思われる場所は是非写真に納めたかったので先日撮ってきましたので公開します。



移設前に駅入り口のあった所

上の写真の左は駅入り口があったと思われる場所。右は駅前のストレートの道を離れた所から
撮影してみました。上の地図の緑の矢印の所から向きもそのままに撮ったものです。




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