井の頭線・夢の計画

井の頭線の生い立ちはかなり複雑だったりします。昭和3年に「東京山手急行電鉄」という会社が母体となり創立します。
その後「東京郊外電気鉄道」と改名、昭和6年には「渋谷急行電気鉄道」を合併し2年後の昭和8年には「帝都電鉄」と改名しています。
この年に旅客営業を開始していますが昭和15年に「小田原急行鉄道(現在の小田急線)」に吸収合併されてしまいます。
さらにその2年後の昭和17年に「小田急電鉄」は「京浜電気鉄道」と共に「東京横浜電鉄」に合併し「東京急行電鉄(現在の東急)」
と改名します。この時に路線名も「帝都電鉄」から「井の頭線」に改名します。昭和19年には「京王電気鉄道(現在の京王線)」も
ココに吸収合併されますが昭和22年の株主総会にて「京王・小田急・京急・東急」が別会社に分離しました。

そんな井の頭線は昭和8年8月1日付けで「渋谷〜井の頭公園」を営業させています。吉祥寺駅までの全線が開通したのは
それから8ヵ月後の翌年4月1日でした。当時とは駅名が異なるものや廃駅になった物も幾つかあります(下参照)



そんな井の頭線、実は壮大な夢計画がありました。それは東京環状線です。東京環状線というと真っ先に「山手線」が思い浮かびますが
その山手線のさらに外側に環状線を作るという計画でした。関東大震災の後急激に人口が増加してきた東京の郊外では次々と新しい鉄道建設
の構想が持ち上がってきました。昭和の初めには大井町から世田谷を抜けて中野付近を経由し滝野川から江東の州崎に至るという約30Kmの
新線の計画が浮上してきました。これが第2の山手線計画だったのです。1927(昭和2)年に敷設免許がおり翌年には「東京山手急行電鉄」
という運営会社も設立されましたが直後に起きた昭和恐慌によってこの事業は中断されてしまいました。

しかし明大前駅近辺のガード(歩道と玉川上水の橋)にその「夢」時代をしのばせる遺跡が残っています。井の頭線の渋谷行きホームの
一番吉祥寺側に立ち吉祥寺方面を見るとその様子が判ります。複々線を走らせる為に列車を通れるスペースを確保させています(下参照)



この写真は丁度明治大学裏の歩道から撮影した物で左側が明大前駅になります。写真で見ると
4本の線路が走れる様に区切られているのが良く判りますがガードの前後には線路を敷くスペースはもうありません。




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