新宿駅の歴史・3

第1期では新宿追分から四谷新宿の話しを、
第2期では戦争により西口に越してきた所まで記してきました。第3期は昭和38年の地下化について調べてみます。

京王線は開業当時は新宿から天神橋付近(現在の文化服装学院の前くらい)までは甲州街道の上を走っていました。
もっとも開業時は併用軌道でしたが後に専用軌道に変更されました。しかし時代の流れに伴い甲州街道の交通量も次第に多くなり
「電車を何とか・・・」という声が響いてくる様になります。この話しが建設省から持ち上がり京王帝都と合意したのは昭和33年の事でした。
執行予定は昭和37年、総工費9億円(その内3億円を京王帝都が負担・残りは国が負担)という当時としては大工事でした。
当時の工事の内容は「併用軌道廃止の為に旧玉川上水路敷地を地下隧道にしてその上に線路を敷く」という話しでしたが
これだけの大工事するのだから駅を地下にして地上に施設をという話しを京王側から国に申し入れがあり国の出資金額6憶円<をそのままにという事で
駅ビル構想の話しがまとまりました。この工事は地上線の4本の線路をホーム・駅舎ごと仮受けして運行上には1本も支障が出ない様に行われました。



この地下化により新宿駅の他に初台駅も地下化され初台駅の先でトンネルを出るというスタイルに代わりました。しかしトンネル化は一度には
行われず一度文化服装学園前までを地下化させてそこで地上線と一時的に合流というスタイルを取っていました。下の写真は文化服装学院前の仮線部分。



地下化された西口の京王帝都線新宿駅は地下約15mの場所に位置し柱の本数を出来るだけ少なくし天井を意図的に高く作り上げられています。
また初台駅までを地下化としたのは環状6号線(山手通り)との立体交差問題もありました。当時は踏切で交差していたこの交差点も
流れ行く時代のせいで車の交通量が増加し保安上の問題や1964年に開催された東京オリンピックの朝霞宿舎への通り道に使われる為にとの理由で
立体化の話しが具体的になりました。この話しは昭和36年に東京都より出された物で翌37年に設計を開始し同年10月に東京都と協定書を交わしています。



左写真は京王百貨店建設中の図。なんか妙に目立つのは周りに高いビルが無いからでしょうか。バスターミナルも何か閑散としている感じです。
右は地下開業年の新宿駅地下ホーム。このタイル貼り、懐かしいなぁ・・・京王線はこれらの工事により昭和38年4月1日付けで地下駅をオープン、
翌月には全車両を大型車両に置き換え8月には600Vから1500Vへの昇圧工事をし5000系を入線させました。
この4月1日の地下駅開業では実は「完全なる地下化」は完了してはいなく文化服装学園の前で地上に出ていましたが2ヵ月後の6月には
その工事も完成し初台駅も地下化され現在の富士急行ビル裏より地上に出るスタイルになりました。地下開業からほんの短期間のみ14m車も乗り入れていました。




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