南武線砂利採取線
南武線にいくつか残る砂利採取側線の一つです。下の地図では宿河原駅から多摩川河川敷に向かって線路が
延びている図が示されています。現在ではこの大きなカーブが道路となり当時の様子を残しているだけとなっています。
図の様に宿河原駅を登戸方に抜け出した線路は大きく円を描く様に多摩川へ向かって線路を延ばしてます。
ちょっと大胆な線路の敷き方で隣の久地駅からの方が近いとも思いますが駅施設の問題等もあったのかと思います。
まずは南武線宿河原駅にやってきました。宿河原駅は登戸まで1.1Km、久地まで1.3Kmという所に位置している2面3線の
駅で側線をもっています。この側線が当時の名残ではないでしょうか。駅の開業は1927年の3月9日です。
ホームの川崎寄りから立川方面を撮影したところ。この駅では上りホームと下りホームがずれた位置に建っています。
奥に線路を跨ぐ歩道橋が見えますがその辺りから右手方に線路は続いていた様です。側線は現在も生きており使用されています。
かつて砂利線が分岐していた個所です。線路脇の柵が外へ広がっているのが判ります。当時はこの歩道橋は無かった
と思われ線路は丁度歩道橋の橋脚部辺りを通り駅構外へ抜けていたのでしょう。当然線路や分岐機器は残っていません。
駅横の案内板を撮影。線路跡そのままのカーブも描かれています。
歩道橋より分岐していく線路跡をみたところ。この道路がかつて多摩川で採取した砂利を運ぶ線路跡
だと思う人はそういないでしょう。左手には留置線に止まっている205系が。
カーブを描きながら多摩川を目指す線路跡。奥が多摩川方面です。
稲田中学校前の交差点。この学校は昭和22年開校である為に線路の廃止の方がはるかに早い事になります。
稲田中学のすぐ先ではもう多摩川河川敷に出てしまいます。道路(線路跡)は土手に突き当たる形で終了して
いますが砂利を採取する為の路線ですから当時はもっと中に入っていました。これは地図を見ても一目瞭然です。
土手に上りかつて線路が延びていた方面を撮影してみました。まるで砂利採取施設を取っ払いそのままテニスコートに
したかの様に広がっています。ただし線路はかなり奥の方まで延びていた様で当時を思いしのぶ物はありませんでした。
この砂利線は国有化される前の「南武鉄道」時代に敷かれた線路で砂利は川崎に送られていました。昭和9年に国が
砂利採取禁止命令を出したのを最期に使われなくなったそうです。南武鉄道の国有化は昭和19年ですがその当時も
使われなくなった線路はそのまま放置されていた様です。当時のこの地域は相当な田舎であった事が上地図でも判ります。
廃線へ戻る